Share

第8話  ワガママな依頼人

last update publish date: 2026-09-01 19:00:18

 金曜日の午前中、沙耶のメールに新しい依頼が届いた。

 神崎からの仕事が本格的に動き始めて、気持ちに少し張りが出てきた頃だった。新しい依頼が来ること自体は珍しくないけれど、今日のメールは最初の一行から、少し違う空気があった。

岸谷さん、はじめまして。

美容ブランド「AYANO」を運営している三浦彩乃と申します。

ホームページのリニューアルをお願いしたいのですが、

とにかく私のイメージ通りに仕上げてほしいんです。

予算は正直あまりないので、できるだけ抑えてほしいです。

でもクオリティは絶対に落としたくないので、よろしくお願いします。

三浦彩乃

 沙耶は一度読んで、もう一度読んだ。

 予算は抑えたい。でもクオリティは落としたくない。とにかく私のイメージ通りに。

 この三つが一つのメールに並んでいる。

 面倒だな。

 正直、そう思った。こういう依頼には、経験上、ある種のパターンがある。最初は「イメージ通りに」と言って、いざ提案すると「なんか違う」が始まる。「なんか違う」の修正を繰り返すうちに、当初の予算では到底収まらなくなる。でも「最初に予算を決めたのはあちら」という事実があるから、追加請求もしづらい。

 断ってもいい案件だった。

 でも沙耶は、すぐには断らなかった。

 「AYANO」か。

 メールを閉じて、検索した。美容ブランド、AYANO。出てきたサイトを開くと、確かにリニューアルが必要だと思った。デザインが古い。コンテンツの量に対して、見せ方が追いついていない。商品そのものは悪くなさそうなのに、サイトが足を引っ張っている。

 もったいない、と沙耶は思った。

 こういうサイトを見ると、職業病のように手を動かしたくなる。何がもったいなくて、どうすれば良くなるか、考え始めると止まらない。

 断るのは、話を聞いてからでもいい。

 沙耶は返信を書いた。

三浦様

はじめまして、岸谷沙耶と申します。

ご連絡いただきありがとうございます。

一度、詳しくお話をお聞かせいただけますか。

ご都合のよい日時をいただければ、

オンラインにてお時間を取らせていただきます。

よろしくお願いいたします。

岸谷沙耶

 送信してから、沙耶は少し考えた。

 以前の自分なら、もっと早く「承ります」と書いていた。内容も条件も確認せずに、とにかく受ける。断ることへの恐怖と、仕事を逃したくないという焦りが、いつも先に動いていた。

 でも今日は、一度立ち止まれた。

 話を聞いてから決める。それだけのことが、少し前の沙耶にはできていなかった。

 翌週の火曜日、三浦彩乃とのオンライン打ち合わせが始まった。

 画面に現れた彩乃は、三十歳前後の女性だった。きれいに整えられた髪、丁寧なメイク、背景には花が飾られている。美容ブランドのオーナーらしい、こだわりを感じさせる佇まいだった。

 「岸谷さん、よろしくお願いします」

 声は明るかった。でも少し早口で、言葉の端に「忙しい人」の空気がある。

 「よろしくお願いします。まず、今のサイトについて、気になっている点を教えていただけますか」

 「そうですね──全体的に古い感じがするんですよね。もっとおしゃれにしたいというか、私のブランドのイメージに合わせたいというか」

 「ブランドのイメージ、というのは具体的にどんなものでしょう」

 「えっと──かわいくて、でも大人っぽくて、清潔感があって、でもキラキラしすぎない感じで」

 沙耶はメモを取りながら、内心で整理した。

 かわいい、大人っぽい、清潔感、キラキラしすぎない。

 それぞれ方向性が微妙にバラバラだ。かわいいと大人っぽいは、バランスの取り方によっては衝突する。キラキラしすぎないという制約があるなら、清潔感の表現方法も限られる。

 「参考にしているブランドや、好きなサイトはありますか」

 「あります!ちょっと待ってください」

 彩乃は画面から顔を外して、スマートフォンを操作し始めた。しばらくして、三つのURLを送ってきた。

 沙耶はそれを開いた。

 一つ目は、シンプルでミニマルな海外のコスメブランド。二つ目は、ポップでカラフルな国内の若者向けブランド。三つ目は、高級感を前面に出した百貨店系のサイト。

 方向性が三つとも違う。

 「ありがとうございます。三つとも、雰囲気がかなり違いますね」

 「そうなんですよ!全部好きなんですよね。だからどれがいいのか、自分でも決められなくて」

 彩乃は困ったように笑った。

 嫌な人ではない、と沙耶は思った。ワガママというより、自分のイメージをまだ言語化できていない人だ。方向性が定まっていないのは、意地悪からではなく、ただ整理できていないからだ。

 これは、丁寧に聞いていけば、形になる。

 「少し、ブランドのことを教えてください。AYANOは、どんな人に届けたいブランドですか」

 彩乃は少し考えた。

 「三十代の女性ですね。仕事も頑張ってるけど、自分のことも大切にしたい、みたいな人」

 沙耶の手が、少し止まった。

 三十代の女性。仕事も頑張ってるけど、自分のことも大切にしたい。

 神崎のサービスのターゲットと、重なる。

 そして──自分とも、重なる。

 「そういう人に、AYANOを通じて何を届けたいですか」

 「うーん……自分を大切にする時間、みたいなものかな。スキンケアって、毎日自分のために使う時間じゃないですか。その時間が、ちょっと特別に感じられるような」

 彩乃の声が、少しトーンを落とした。さっきまでの早口が、ここだけゆっくりになった。

 これだ。

 沙耶はメモに書いた。「自分のために使う時間。特別に感じる」。

 ブランドの核心が、そこにある。かわいいとか大人っぽいとかキラキラしないとか、そういう表層の言葉の奥に、本当に届けたいものがあった。

 「三浦さん、今おっしゃった『自分のために使う時間を特別に感じる』、これがAYANOのブランドの中心だと思います」

 彩乃は少し黙った。

 「……そうかもしれない」

 「このコンセプトを軸にすると、デザインの方向性が見えてきます。かわいすぎず、高級すぎず、でも日常の中に少し特別な空気がある。そういうサイトにできると思います」

 「なんか、私が言いたかったことより、うまく言ってもらった気がします」

 彩乃は笑った。さっきより柔らかい笑い方だった。

 「予算の話もさせてください」

 沙耶は続けた。

 以前の自分なら、予算の話を後回しにした。相手の機嫌を損ねるのが怖くて、話の流れが良くなってきたところで水を差したくなくて、気づいたら「まあいいか」と流していた。でも今日は、ちゃんと話す。最初に整理しておかないと、後でお互いが困る。

 「最初のメールに、予算は抑えたいと書いていただきましたが、具体的な金額を教えてもらえますか。それによって、できることとできないことが変わってくるので」

 彩乃は少し気まずそうな顔をした。

 「えっと……正直に言うと、五万円くらいで考えてたんですけど」

 沙耶は黙った。

 五万円。フルリニューアルで五万円は、厳しい。正直に言えば、無理な金額だ。でも「無理です」と切り捨てるのも違う気がした。

 「五万円だと、フルリニューアルは難しいです」

 沙耶は率直に言った。

 「ただ、優先順位をつけて、まず一番効果が出る部分から手をつけることはできます。トップページと商品ページを中心に、コンセプトに沿って作り直す。それなら現実的な範囲に収まります」

 「それって……どれくらいかかりますか」

 「八万円から十万円の間で見ていただければ」

 彩乃は少し考えた。沙耶は待った。

 「……わかりました。それでお願いできますか」

 「はい。ちゃんとやります」

 沙耶は言った。「ちゃんとやります」という言葉が、自分でも少し意外だった。いつもなら「よろしくお願いします」とか「精一杯努めます」とか、少し引いた言葉を選んでいた。

 でも今日は、「ちゃんとやります」と言えた。

 打ち合わせが終わって、画面が暗くなった。

 沙耶は椅子の背もたれに体を預けた。

 彩乃は難しいクライアントになるかもしれない。方向性が定まるまで、何度かすれ違うことがあるかもしれない。それでも──この仕事は受けてよかったと思った。

 あの「自分のために使う時間を特別に感じる」という言葉が、まだ頭にあった。

 それ、私も欲しいな。

 ふとそう思った。

 自分のために使う時間。特別に感じる時間。今の沙耶の日常に、そういう時間がどれだけあるだろう。朝は達哉のために起きて、夜は達哉のために整えて、合間に仕事をして、また達哉のための時間に戻る。

 仕事をしているときだけが、沙耶のための時間だった。

 もっと、あってもいいのかもしれない。

 そう思って、すぐに打ち消した。今はそういうことを考えるより、仕事に集中する方がいい。神崎の案件も、彩乃の案件も、どちらもちゃんとやり遂げたい。

 でも──その小さな思いは、打ち消した後もどこかに残っていた。

 夜、達哉が帰ってきた。

 「おかえり」

 「ん。今日、なんか疲れた」

 「お疲れ様。夕飯すぐ出せるよ」

 「早くして」

 沙耶はキッチンに向かいながら、今日の打ち合わせのことを思った。彩乃の「なんか、私が言いたかったことより、うまく言ってもらった気がします」という言葉。あの笑顔。

 達哉には、言わなかった。

 言う気になれなかった、というより──もう、言う場所がここじゃないと思い始めていた。

 今日のことは、今日の沙耶だけが知っている。

 それでいい、と思えるようになっていた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • RE:RE:RE 離婚してください~都合のいい女、やめました~   第29話  神崎の問い

    十一月の終わり、打ち合わせは午後二時からだった。 神崎のオフィスに着くと、チームの二人はすでに席についていた。沙耶が入ると、「お疲れ様です」と声がかかった。 三ヶ月前、初めてここに来た日には、この部屋の空気に少し緊張した。今日はそれがなかった。 「始めましょうか」と神崎が言った。 新ブランドのターゲット設定について、沙耶が用意してきた案をもとに、一時間ほど議論した。チームの意見が出て、神崎が整理して、沙耶がまた言葉を足す。その往復が、今日はよく機能していた。 打ち合わせが終わって、チームの二人が席を外した。 神崎がコーヒーを二つ持ってきた。 「少しいいですか」 「岸谷さんは」と神崎は言った。「どんなブランドを作りたいですか。自分自身の、という意味で」 仕事の延長線上にある質問だった。 でも沙耶には、その問いが仕事の外側まで届いた。 「……考えたことが、なかったです」 正直に言った。 「そうですか」 「自分が作りたいもの、というより、相手が必要としているものを考えてきた気がして。クライアントが何を求めているか、どう応えるか──そちらに、ずっと意識が向いていたので」 神崎はコーヒーカップを両手で持って、少し考えるように間を置いた。 「それは強みでもある」 「強み」 「相手を見

  • RE:RE:RE 離婚してください~都合のいい女、やめました~   第28話  達哉の残業

    珍しいことだった。 「今日、遅くなる」 朝、達哉がそれだけ言って出ていった。何時になるかは言わなかった。沙耶も聞かなかった。 扉が閉まって、鍵がかかる音がした。 午前中は、神崎から送られてきた資料の確認をした。 新ブランドのターゲット設定について、神崎がいくつかの案を出していた。沙耶はそれぞれにコメントを書き込みながら、自分の考えを整理した。 誰に届けるか。誰を選ぶか。 神崎の言葉が、作業の中にまだ生きていた。 午後になって、沙耶は好きな音楽をかけた。 いつもはイヤホンをつけて作業する。達哉がいると、音が気になると言うから。でも今日は一人だったから、小さなスピーカーから流した。部屋に音楽が広がった。それだけのことが、少し特別に感じられた。 夕方、小腹が空いたので、冷蔵庫にあったチーズと、クラッカーを出した。 夕飯の時間を気にせずに食べた。 達哉がいる日は、夕飯の時間が決まっている。七時までには食卓に出す。それが暗黙のルールだった。誰かが決めたわけではなかった。でも七時を過ぎると、達哉の機嫌が少し変わった。だから沙耶は六時半には台所に立っていた。 今日は、その時間が来ても台所に立たなかった。 七時になった。 クラッカーをもう一枚食べながら、資料の続きを読んだ。 八時を過ぎた頃、沙耶は一人でご飯を食べた。 冷蔵庫にあったもので、簡単に作った。味噌汁と、卵焼きと、残

  • RE:RE:RE 離婚してください~都合のいい女、やめました~   第27話  宏幸への電話

    誕生日当日は、土曜日だった。 午前中、沙耶は仕事の作業を一段落させてから、スマートフォンを手に取った。達哉はリビングにいた。沙耶は寝室に移って、扉を閉めた。 実家に電話するのに、扉を閉める必要はないはずだった。でも今日は、閉めたかった。 呼び出し音が三回鳴った。 「はい」 母の声だった。 「お母さん、お父さんいる?」 「いるよ、ちょっと待って」 受話器が置かれる音がした。遠くで「宏幸さん、沙耶から」という母の声が聞こえた。それから少し間があって、足音が近づいてきた。 「ああ」 父の声だった。電話口の父はいつも、最初の一言が「ああ」だった。 「誕生日おめでとう」 「……ああ」 二つ目の「ああ」は、最初のものより少し低かった。照れているときの声だ、と沙耶は知っていた。 しばらく、沈黙があった。 父との電話は、いつもこうだった。沈黙が長くて、言葉が短い。慣れない頃は、何か話さなければと焦った。今は──この沈黙の中に、ちゃんと父がいることがわかるから、焦らない。 「プレゼント、送ったよ。届いてる?」 「届いてる」 「気に入ってもらえるといいんだけど」 「……使う」 そ

  • RE:RE:RE 離婚してください~都合のいい女、やめました~   第26話  父の誕生日

    父の誕生日は、十一月の終わりだった。 沙耶は一人でデパートへ行った。 達哉には「出かけてくる」とだけ言った。どこへ、とは言わなかった。父の誕生日だから、と説明することもできた。でも──説明しなかった。 説明する必要がなかったから、という理由が、今の沙耶には自然に出てくるようになっていた。 平日の午後、デパートの中は人が少なかった。 沙耶はエスカレーターを上りながら、父に何を贈るかを考えた。毎年、この時期になると考える。毎年、答えを出すのに時間がかかる。 父は欲しいものを言わない人だった。 聞いても「何もいらない」と言う。「何でもいい」とも言わない。ただ「何もいらない」と言って、それ以上話さない。だから沙耶はいつも、父が何を好きかを思い出しながら、売り場を歩く。 今年は何にしよう。 紳士用品のフロアを歩きながら、沙耶は父のことを考えた。 無口な人だった。家族の中で一番、言葉が少なかった。食卓でも、リビングでも、父の声が聞こえる時間は短かった。でもその分、たまに言う言葉が、妙に重かった。 「無理すんな」と電話口で言われたとき、沙耶は泣いた。五文字だった。それだけで、泣いた。 どうして五文字で泣けるんだろう、と思いながら泣いた。 ハンカチの売り場の前で足が止まった。父はハンカチをよく使う。いつもズボンのポケットに入れている。布製の、柄のないもの。沙耶が子どもの頃、転んで膝を擦ったとき、父はそのハンカチで血を拭いてくれた。何も言わずに、しゃがんで、丁寧に拭いた。 沙耶はハンカチを三枚

  • RE:RE:RE 離婚してください~都合のいい女、やめました~   第25話  神崎の仕事の流儀

     画面の向こうで、神崎が資料を開いた。オンライン打ち合わせの背景は、いつもと同じオフィスの一角だった。本棚と、白い壁と、観葉植物の端。余分なものが映り込まない角度を、この人はいつも選んでいる。「今日は少し、僕の話をしてもいいですか」神崎が言った。議題の確認よりも先に、そう切り出した。「もちろんです」「ブランドの言葉を作るとき、僕がまず考えることがあって」「はい」「そのブランドを、嫌いな人は誰か、ということです」沙耶はペンを持ったまま、少し止まった。「嫌いな人、ですか」「そうです」と神崎は言った。表情は穏やかだった。「好きになってくれる人を考えるより、先に」「それは──なぜ」「全員に好かれようとすると、誰の心にも届かない。言葉が丸くなりすぎて、触れても何も感じないものになる」神崎は資料のページをめくった。「誰かに届けようとするとき、その誰かを選ぶことが必要です。選ぶということは、別の誰かを選ばないということでもある。それを恐れると、ブランドは輪郭を失う」沙耶はメモを取った。誰かを選ぶことが、誰かを救うことになる。書きながら、手が少し止まった。「岸谷さんは、これまでのクライアントワークで、そこを意識したことはありましたか」神崎に聞かれて、沙耶は少し考えた。「……意識していなかったと思います。届けたい人を考えることはあっても、届けなくていい人を考えたことは、なかった気がして」

  • RE:RE:RE 離婚してください~都合のいい女、やめました~   第24話  仕事部屋がほしい

     思ったのは、特別な瞬間ではなかった。木曜日の午後、寝室の隅のデスクで作業をしていたときだった。神崎から送られてきたブランドの資料を開いて、コメントを書き込もうとした瞬間、達哉が部屋に入ってきた。「あ、ごめん、邪魔した?」「大丈夫」と沙耶は答えた。 達哉は特に何をするわけでもなく、クローゼットから何かを取り出して、また出ていった。それだけのことだった。 でも沙耶は、達哉が入ってきた瞬間に画面から目が離れたことに気づいた。集中が、糸を切られたように途切れた。達哉が何も言わなくても、その気配だけで、沙耶の思考は一度止まった。 作業部屋があったら、と思った。思ってから、その考えが思ったより自然に出てきたことに、少し驚いた。その夜、夕飯の片付けが終わった後、沙耶は達哉に話した。「ねえ、ちょっといい?」「なに」達哉はソファに座ったまま、スマートフォンを置いた。話を聞く体勢になった。それは悪くない兆候だった。「仕事部屋、作ってもいいかなって思って」「仕事部屋」「今、寝室のデスクで作業してるんだけど、集中できなくて。納戸を片付けたら、デスクくらい置けるんじゃないかと思って」達哉は少し考えるような間を置いた。「どこに作るって?」「納戸」「俺の荷物があるけど」「片付けるの、手伝うよ。段ボールに入れて、押し入れに移せば──」「別に今のままでいいじゃん」それで、終わった。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status